昭和44年12月02日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同のあつかいをすな。物を余計に持ってくると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此の方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
これはお取次に携わらせて頂く者に、厳しくその心がけを説かれたものだと思います。けれども、これを、信者の側からおかげを頂く者の側から、一つこれを頂いてみたいと思う。私はあの、取次ぎの先生というてもまあ、取次ぎの先生を即、生神金光大神として頂けばまあ、取次者でもよければまたは神様と言うてもいいだろう。おかげを受けて私は先生に特別の扱いを受けられるような信者におとりたてを頂きたいと思う。神様に言うならば特別のあつかいを受けれるほどしの信心を頂きたいと思う。
「物を余計に持ってくるとそれを大切にするような事ではならん。信心の篤いのが真の信者じゃ」と。やっぱり、人よりうんと抜きん出て御用でも出来る、お日参りも出来るようにおかげを頂かせてもろうて、そしていわば、抜群のおかげを頂きたいと。人が到底頂けないようなおかげを頂きたい。特別の取り扱いを受けるくらいなおかげを頂きたい。それは信者の側からです、私共もここんところを頂いていつもそれを思うのですよね。「信者に不同の扱いをしてはならん」と。物を余計に持ってくる信者を大事にする。
物を持ってこない信者には、まあ粗末に扱うと。そういうような根性では出来んのですけれども、先ほど申しますように、取次者即金光大神と。金光大神が、私は大事にしなさると。金光大神が、特別の取り扱いをなさると言うことになれば、おかげを受けると思う。これはまあ取次者が、ここで言うなら私なら私、例えばここに、甲乙二人の人がお参りをしてくる。一人には「ようお参りでした」とこう言うたり、一人の人には「まあ裏にちょっと寄りなさい。
ご飯でも食べて行きなさい」とまさしくこれは不同のあつかいをしておるわけです。ところがです、問題はそのご飯を呼ばれていかない信者もおかげを頂き、ご飯を呼ばれていく信者もおかげを頂くと。いうならですね例えば不同の扱いをする様な事では信者が助からんぞと言うてあるのですけれども。そこに人間心というのではなくて、いわゆる金光大神の心、すなわち、金光大神がそういいござるのだという事になってくる。そこに、私は大変ここんところにはデリケートな難しさがあるとこう思うのです。
昨夜、月次祭が終わりましてから、久富正義さんに、私ちょっと用事がございましたから、裏にコタツの間がありますから、コタツのところに来る様に、裏に参りましたら久富さんが、お茶を入れられますから、お茶を出しましたり、果物を出したりまあ、一緒に頂いたわけです。夕べ十二時過ぎまで位、色々信心のよもやま話しを、致しましたでしょうか、ただ、(?)信者控え室に火災報知器がついてございますね、それがジャンジャンこう鳴り出したこういう。
それで、その、まあ、どこが原因、どこか電気の使い過ぎだろうかなんだろうかと色々調べた結果その、ボイラーの加熱からだったらしい。それで、まあいうならそんなわけで起きておりましたから、おかげでまあ事なしに終わらせて頂いたわけです。まあいつもだったら寝てしまうとるとに、しかも、(?)に寝とる、例えば寝ておりましてもですね、私共が休んでおるところなら尚更な事。ここですからとても寝て覚えんだったろう、火の気がたっても分らんだろう。
おかげを頂いてまあ、事なしに済んだが、本当に夜、夜中にどんジャンジャン鳴ったってこれはもう、どんこん出来んなあと言うて話したことですけれども。しかし一昨日、今日、今晩だけのことを考えてもです、まあいうならば私が正義さんだけを特別扱いをしておったおかげでです、大難になるところをいわば無難におかげを頂いたと。してみるとあれは大坪総一郎がまあちょっと、裏さえきなさい、ちょっとお茶を頂いていきなさいというたのではなくて、あれは即金光大神であったなあという風に私は感じたんです。私はいつもそれを感じます。
昨日の月次祭の中にも申しました様に、羽田野さんがまあ、本をずっと毎月々、送っておられる、それを私は誰が送ってきよるか知らなかった。ところが羽田野さんが一年分のお金を払いこんでここに送ってもらわれよった。どこから送ってくるか分らんけれども私はその本を大体好きな本ですけれども俳句の本です。けれどもね、ページをめっくって読もうという気がしない。この本に限っては一年あまり送ってきよる。
たまたま昨日送ってきておるところへ丁度羽田野さんが参ってみえて、羽田野さんの、中の俳句が好きな方ですから、こうして送ってもらうけれども、誰かが送ってきよるじゃろうばってん私はこの本は見る気がしない。それで波多野さんに断って頂こうかしら、と私はその事を言ったら波多野さんが言われる。「いやそれは実は先生、私がお送りしよるのでございます。
お金を払いこんでおるりますから、向こうから送ってきよるとでしょうが、実をいうたら私もですね、この本だけは読みたくない」ち言う。他の本を読んでも。ね。はあ、そげな事ばしよるけん私が読みようごとなかったいと言うてね、自分が食べたくないものを人に勧めてる。自分が読むごとも無いような本を私に贈ってきよる。これじゃやっぱり私が読まれなかったはずが、してみるとこれは大坪総一郎ではなくて、私が読みたくないのは金光大神が読みたくないちいいござっとである。
ちょっと裏に入りなさいと言いよるといかにも大坪総一郎がいいよるごたるけれども、これは金光大神がいいござるとである。いうならばそれだけ、人間大坪総一郎ではない、神様から、不動の扱いを、特別の扱いを受けていると言うてもよいのである。今日皆さんに私は分かって頂きたいところはですね、本当に神様から特別の取り扱いを受けれる位な信心を頂こうというのである。
神様も、不動の扱いをすなと言って不動の扱いをしござる。けれどもそれは実を言うたら、不動の扱いではなくてです、やはりこれは理の当然の扱いなのである。94節の最後の所に「信心の篤いのが真の信者じゃ」と。それを特別の扱いでも受ける人が、結局信心が篤いのである。信心が篤い。篤いという字は竹冠に馬という字が書いてあるね。篤い。「世には神を売って食うものが多いが、この方は銭金では拝まん。
神を商法にしてはならんぞ」と。もう、そのままに頂くところなんですね。そこで、ここんところで今日私が感じます事はね、「世には神を売って食うものが多いが」と、「世には教えを売って食うものが多い」神様のお言葉ぞと、神様の御教えじゃと。と例えばそれを売ってくる者もある。ここんところがやはり取り次ぎ者に下さるところなんですね。ここの、銭金で拝まぬと。お供えをするからせんからというて拝んでやるとか、拝んでやらんとか、飯をやらんとかというような事ではない。
けれども、今日ここんところをね、教えを売り物にしておる。これもやっぱり商法にしておるという事が言えれる。金光様のご信心は決して「お供え物とおかげはつき物ではない」。お供えをしなければやらんというのではない。これ位な会費がいるということも無い。1銭もなからななからんで、拝む事も出来りゃお参りもする事が出来る。お話を頂いて帰る事が出来る。
いうなら、金光教のいうならそれは看板のようなものである。金光様の信心をすればお金がかからん。それがお道の信心の流儀ですけれども、教えを売るということはどういうことかというと、自分、これはもう、教えを取次がせてもらうものね、私のような、私がです、ただ、教祖様はこういうてござる、神様、教祖様はこう教えてござるというだけではそれは教えを売っておるようなもの。
けれども、それを自分の物にして、自分自身が即、金光大神になって教祖様のみ教えであってもです、もうそれが自分の教えであって、自分のものであって、それを、人に伝えていくというのであったらこれは売ることにはならないだろう。いわゆる、受け売りということを申します。教祖様の仰った事を受け売りする。これはやはり売ることになるのじゃないでしょうかね。ただ、教えだけをその教えをいっぺん自分のものにして、そして、それが人に伝えられる。
昨夜、お月次祭のお説教をさせて頂くのに、どういう事をお話させて頂こうかと、いつも、私考えていないですからね。皆さんご承知の高橋さんが前講をされたからその中からヒントを得て話そうと、思うても、全然私が聞こえなかったから分からなかった。聞いたら「神様の働きに邪魔にならないような私達になりたいといったような話だった」という事だった。もうその事をお話をさせて頂くのには神様のお働きが一人一人の上に現れる。その神様の現れ方がです。
その、信者その氏子一人一人の上に神様がおかげを下さろうとしておるのだけれども、私共の信心というか生き方が間違うために、それでは頂かん。神様のどうぞ信心しておかげを受けてくれよと言うておかげをここに準備をしておるのだけれども、そこまで行かなかったり、それを受けられないいわば、それを右にし左にしてしまうから、おかげにならないと。どういう生き方で行ったらならそういう神様が下さろうとしておるおかげが頂けれるかと、そこんところを私、神様にお願いさせて頂いたのです。
そしたらいつもいつも頂きますように、六地蔵さんのお話をしたのですよ。これは昨日私そのことを神様へ、ご神前に出らせて頂いたらね、「明日は成る、明日は成る、雪の夜ばなし」と頂いたのですよ。明日は成るということは明日は成就するということ。歌舞伎の過多のごたる。明日は成る雪の夜ばなれと。だから昨日は私はそんな気持ちで皆さんにその話を聞いてもらった。
そしてそのことがです、その、あの、六地蔵さんの話の中にあるその内容がです、おじいさんの考え方、おばあさんの考え方、そのものがです、神様の下さろうとするおかげを見事にキャッチしていくところの心掛けであるという事を私は感じたです。だからそれを話させて頂いた。同時に例えば今朝のただ今申しております御理解から言うとです、「此の方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせぬ」とこう教祖様は教えておられるから、あなた方も喜びなさいというだけじゃない。
それなら私は教えをいうならば受け売りしておるようなものである。ところが私自身がその御教えを私のものにしてその六地蔵さんのお話の中に現われてくるようなです、私自身がおかげを受けておる。これは絶対に間違いがないことなんだ。人が腹をたてんところでも、腹を立てるどころか、それを有りがたく受けていく。馬鹿ほどに素直にいよいよ神心を高めて行く。親切の心を高めて行く。
せっかく明日は正月でもち米を買うてそしてそれで、あの正月を迎えようとお爺さんとお婆さんが話し合ってね、少しばかりの自分ところのその品物をもって金に換えて、その帰り道に、雪の中に立ってござる、綿帽子をかぶってござるお地蔵さんが気の毒でたまらん。相済まん。地蔵さんにその前をとおり抜け切らないほどしにそのことを思うて、その、もち米を買わなければならないお金を持って、傘を買うてお地蔵さん達一人一人にかぶせたとこう言うのである。
帰ったらお婆さんがちゃんともう、持ちつきの準備をして待っておった。ところが実はこうこうだというたらお婆さんががっかりするだんじゃない、悪く言うだんじゃなか「そりゃおじいさんよいことをしてきなさった」というて共に喜んだ。「さあ、明日の正月はもうついた餅より心餅で行きましょう」というような調子である。そのお婆さんの心掛けなのだ。そういう頂き方でさへ行けばです、必ず神の願いが成就する。
神を商法にしてはならん。いわば、商法にはしないけれども、神様がね、大工さんにもなって下さりゃ餅つきさんにもなって下さる。人間幸せ全てのものをそこに用立てしてくださる役目を務めてくださっておる。餅をついてくれとも、家を建ててくれとも願われたわけではないけれども、そういう例えばですね、それが例えば成るほど、これはおとぎ話である。子供に聞かせる話である。
けれどもこれは本当のことの理をうがった話なんだ。真理をうがった話なんだ。この生き方に定まった、成るほど教祖様が言うてござるように此の方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせぬ。ですから、普通誰でも喜ぶことだったら誰でも喜ぶけれども、普通のものでは喜べない所をです、喜ばせて頂く稽古を本気でさせて頂く。それを私が教祖様がこう言うてござるから、私がそれを皆さんにそれを受け売りするというのではなくて、私自身が頂いて。
私は何年前かの元旦祭の時にその話をしたことがあった。ご承知のように椛目の時代である。もとの畳敷きであったあそこにお米が七、八俵こずんじゃる。何時の間にだれが持ってきたか知らん。分からん。お供え主が分からん。「誰が持ってきたでしょうか」ち、それこそ、「窓からお地蔵さん達が持ってきてくださったじゃろう」と言うてお話したことでした。例えば私がです、求めんでも頼まんでも願わんでもです、必要なものが必要に応じておかげを受けておる。
いうならば天衣無縫のおかげを受けておる。これは私がおかげを売っていない商法にしていないおかげである。自分のものにもようせんどいてそれを例えば売ることはこれは商法と同じことだ。天衣無縫というのは、私ここ二、三日、参ってくる人に何名にも話した。そこに衝立が立ってある。お賽銭箱の前に。「あれが出来た由来はあなた達は知っておるですか」ち私言うたら、「いいえ知りません、そのことはいっこうに知りません」とこういう。「知らんはずがあるもんかい、あの時分にあげなお話しを頂きよった」ばってん、誰も知らん。それで私がまた改めてお話をしてあげる。
「久冨さん、あなたは知っておりますか」ち。「いいえ私もしりません」。皆さんどうですか、覚えちゃるでしょう。私共が椛目であのようにしておかげを頂いておった。ところがその、御結界というこれが、問題なん。他所の教会から御結界てんなんてん作っちゃ出来んて。お道の先生でもなかつにほんな御結界やらして。それで、ここ、御結界の座というものをね変えなければならなくなった。
それでどこどこの先生が来なさるち言う、ともうただ、御結界をほかんところへ持って行って、隠したりしよった時代があったでしょう。それで、もうそんなごとあるごたるならば、なら御結界をここさへ持ってくるというて椛目のあのお広前の次の楽室にもってきた。四畳半のそれで私がこう向きよったのと反対、お広前がここならこげな風にしてお取次ぎをさせて頂いたですね。そういう時代がどうでしょうか、半年くらい続いたでしょうかね。あの時。あの長ひょろい、こう部屋でしたからね。
この衝立を後に持って来るとここ一杯に、間切りが出来るようになった。だから御結界と( ? )まだ三橋先生がおられた時分久留米の、だからあそこは楽室につかって普通私の控えに使ってそこで私がお茶でも頂く部屋にしておったけれども、御結界が半分そこに出てきましたものですから、このたった2畳半くらいなところでお茶をしなければならなくなった。三橋先生がもうその、御結界の後でお茶をされる。私はその、こちらの方でお取次ぎをさせて頂く。
それで、ある方が「ここに一つ衝立を立てるお供えをさせて頂きたい」と言うて、あの、願い出があった。どういう物を作らせて頂こうかというのである。丁度、高芝さんところ宅祭りかなんかに高芝さんところに私が行っておるところへその、見えました。せっかく作るなら桑の木がよかばいのち。もう、額縁類はこの桑の木が一番最高。だから桑の木がいいよ。さあところが桑の木をもう、その、探したけれどもなかった。
その、作るひもの屋さんがお願いにきまして、そしたらある製材所に行ったところがですね、丁度そこの主人が長靴を履いて出かけようとしておるところに「ここで、桑の木はないじゃろうか」ち。「あそこに、隅の方に一つはあることはあるが使えるじゃろうか」、というてその、まあ普通の人が気が付かんところに一つ転がってあった。「はあ、これでよかの、これをわいてから使おう」というようなあの桑。
もう間一髪おかげを頂かせてもろうて、神様がそれこそ、当時の椛目の為に用意をしておって下さったようにおかげを頂いた。 それで本当に神様の働きちゃその、作った人も田主丸の山口さんというご信者さんですから、もう本当に神様の働きに感動してあれを作った。作られた。丁度高芝さんのところへ、その、今度表具屋さんがあった。それでどういう風な表装をしましょうかというから、私が「表は金光様の金の字がよかろう」ち言うてからあの金箔にした。
後ろは久留米の三橋先生のことを水神さんち言うた。水の性の人だというておりましたから、後は水色にしたらよかろうというて、後が水色になった。そういう事であの、衝立が出来たんだと。あの衝立の由来なん。出来た由来。それからまあ、御結界をここに持ってきて良いようになった時には今度は後の廊下の御結界の後の方へあれを使うた。ここいってから、これは物の長物のようになったけれども、お賽銭箱が出来た。
あそこにおいて見たところが丁度賽銭箱にきっちりあそこへお賽銭箱の向こうに置く、こちらにおくしきりに衝立に丁度良いようにあれが使える。まあ、えらいほかの話しになってしまいましたけれども、そういうね、おかげを私は天衣無縫だとこういうのです。天衣無縫というのはね、例えば縫い目の無い着物だという。小さい人が着ればね小さくなる。大きい人が着れば大きくなる。丸きりここの合楽教会の賽銭箱に前に置く衝立にあつらえたようでしょうが。
その時その時にです、そこできっちりおかげ頂いてきておるわけです。いうならばそういう意味においての天衣無縫のおかげを頂いておるということは私は神様から特別の扱いを受けておるという事が言えるのではないでしょうか。特別の取り扱い。そこで私だけが受けられるのではない。みんなもそういうおかげが受けられるのだと。みんなもそういうおかげが受けられるのだと私が教祖様の御教えを自分で頂いて、それを自分の血やら肉にして、こういうおかげが受けられる事実を皆さんに見てもろうて。
皆さんにお伝えさせて頂いておるのですから、これは、商法ではない。それがです、形に表れてこの人にはお茶をあげ、この人にはお茶もなんもあげないといったようなこともあろうけれどもです、それは商法ではない。そして、私がここで言いたい事は特別扱いでも受けられる位な信心を頂かなければいけん。今日は私が頂いておる事のなかにも色々と頂いておりますけれどもね、ちょっと時間が過ぎましたが。これも、お芝居の中に「太閤記の十段目」ちいうのがある。ね。
「これ見給え光秀殿、戦の門出にくれぐれも、お諌め申したその時は、思いとまってたまわらば、こうした難儀もあるまいに」というてみさおの嘆きのところがございますよね。触りです。それにねもう、母親が死による。だから「母親が死ぬ前にどうぞ、善心に立ち返ると、たった一言言うてたて」というところがある。今日はそこんところを頂いたのですけれどもね、本当に善心に立ち返るとたった一言、神様にです、改まりの証をたてなければいかんです。
今のままでおかげだけ頂きたいというのはこれはね、いうならば、商法にしてはならんと、言うておられる、私は神様を丸きり使用人のように思うておるようなことではないだろうかとこう思うのです。集金に行って下さいといったような、願いなのです。自分は改まろうとしないでおいて、そして、神様だけを使おうとする。そういう生き方ではいけん。例えばここに一つの難儀なら難儀に直面した時にです、これではこれでは自分が助からないとわかったらです。
本気で一つ、善心に立ち返ると言う事をです、神様の前に私誓わないかん。そこには願わんでも頼まんでも、集金にも行ってくださるだろう、病気を治して、医者の代わりにもなってくださるだろう。人間関係の複雑ならそこに、中に仲裁して下さる、仲裁人になって下さるだろう。改まるというひきあてもないの、引き当ても持たずに、神様に願いを立てると言う事をです、やはり、有る意味において、神を商法に、使うようなもんではないでしょうかね。
今日は94節、95節を続けて頂いて、私が頂いておるいわゆる、これ見給え光秀殿のところに入っていきたいと思うのですけれどね、よく皆さんで考えて見てください。そして、用は私自身がです、「明日は成る、雪の夜ばなし」ではないですけれど、私が教祖の神様が「この方の道は喜びで開けた道じゃから一切を喜びで受けていけよ」と教えて下さったそれを信条にしてです、自分の信心の信条にして。
そのことに一生懸命精進努力させて頂きよったらです、誰がもってきたか分からん様にしてです、お米がこづんであり、着物がこづんであり、人間幸せに成って行く為の全てのものがここにいうならば集まってくる。そういうおかげを私が頂いて皆さんに見てもらっておるわけ。けども私の場合に引き当てがある。本気で善心に立ち返ると実際は出来んけれども、それを神様の前にね、誓ってある。いうならば。でその、証を道に立てていきよる。倒れ転びをしながらであっても。
「信心は日々の改まりが第一」というところに焦点を置いておる。なかなか難しい。難しい事だけれどもです、そのことに一つの生きがいを感じ、私が皆さんに何時も申しますように金光様の御信心は生神金光大神を目指すのだ。信心というわが心が神に向かうていくのを信心というのじゃと仰るようにです、生神金光大神というのは金光大神の専売特許ではない。みんながこのようなおかげが受けられると仰るから、私も金光大神にならせて頂く心を神に向けていくという生き方。
そして最近私が思う事、私が思いよる事が私が思いよるとじゃないばいなあ、金光大神が思いござるとじゃなあと、私がしよる事が私がしよることじゃないなあ、金光大神がしござるとじゃなあと分からせて、感づかせて頂くその、羽田野さんの例やら、夕べの正義さんの例やらを持って申しましたですね。信者に不同の扱いをすな。いかに不同の扱いをしよるようにあるけれども実際はそれは大坪総一郎がしよるのではない。金光大神がしござるのだと。だからそれには必ず、おかげが伴うておるのだと。
昨日私が正義さんを引きとめていなかったらひょっとしたら火事になっとったかもしれん。というようにですね、そこに証がたっていく実証されていきよる。自分の心が金光大神に向こうていきよる印。まだ金光、私がいかにも金光大神になっておるような風に聞こえますかもしれませんけれども、私は金光大神を目指していきよることがです、金光大神の働きそのものを私の心の上に形の上に表して下さるのではなかろうかと思うのです。 94節95節を今日は全然違った見方で聞いて頂きました。
どうぞ